日記かつポエム(2026/07/19)
勧善懲悪が好きじゃない。
昔は水戸黄門が好きだったし、半沢直樹も見れた。 今はまともに見れる気がしない。 これらはよく聞く意見だと思うが、自分もここに当てはまる。
いつから勧善懲悪が好きじゃないんだろう? 翌々考えてみれば、水戸黄門を見ていた時期にもテイルズをやっていた。 テイルズはシリーズの殆どが勧善懲悪にならない。 自分が初めてやったのはシンフォニアだが、あれなどはまさに勧善懲悪の対局に位置する作品だ。 それぞれに苦しさと正義があって、そのうちの片側を移しているに過ぎないんだと私たちに教えてくれてる。
でも、そんな中でも水戸黄門は普通に見てた。 小学生とか中学生の頃だ。 なので、そのころは勧善懲悪に対して今ほどの抵抗感はなかったんだろうと思う。 その後、高校・大学と歳を重ねていって、テイルズとかうたわれるものとか、ニーアとかいわゆる重い作品のほうが好きになった。 といっても、社会人になって新卒で入った会社にいたゲーム好きの同期から「重い作品が好きなんだね」と言われるまで、自分が重い作品が好きという自覚はなかったんだが。
それからは自分は重い作品が好きなんだと思ってきたが、実はそうじゃないんじゃないかと最近思い始めている。 もちろん、ストーリーが重ければ重いほど、そこからのカタルシスが大きくなるので、それが好きだという側面はあるだろう。 そういう意味ではストーリーの’重さ’が好きだというのも間違っていないのかもしれない。 ただ、それ以上に勧善懲悪に納得できないという気持ちが根底にあるんじゃないかと思い始めている。
じゃあ、勧善懲悪の何が許せないのか、と考えた時には実はその理由をあんまり言語化できていない。 悪側の意見を聞けよ、というのは一番わかりやすい理由だが、それだけなのか?とも思っている。 それって綺麗事では?という感覚も同時に自分の中にあるのだ。 私たちの受け取る物語のほとんどはナラティブ(narrative)、つまり誰かが主観的に語る物語だ。 ナラティブである以上、視点があって正義と悪を描くのはある意味当然だろうという感覚もある。
一方で、悪側の意見を聞かないことが恐ろしいことなんだということをなんとなく実感している自分がいるのも確かだ。 言い換えると、人間関係において他人の背景を考えないことの、恐ろしさ。 大人になってこれを学んだから、勧善懲悪に納得できないのかもしれない。
あるいは、自分自身が悪側に立ったことがあっただろうか?パットは思いつかないし、思い出したエピソードはどれも自分が悪い気しかしないんだが、とはいえ悪側に立ったときの気持ちがなんとなくわかるという側面もあるかもしれない。
と、言ったことを考えてる今も「他にどんな視点があるだろう?」と、無意識にできるだけ色んな視点から物事を捉えようとしてる自分がいるような気がする。 これは一方的な視点で猪突猛進して失敗した経験があるからだ。 これに関しては思い当たるエピソードがいくらでもある。
そして、大した人生を送ってきたわけでもない自分だが、そんな経験からでも「世界はグラデーションであり、バランスが大事」であることくらいは学び取ることができた。 自分はこのことが一種の世界の真理であると思っているし、勧善懲悪はこの真理に相反するように感じるからこそ受け入れられなくなったのかなとも思ってる。 やっぱりこれが一番大きいのかもな。
とはいえ、一方で「世界はグラデーションである」なんてのは、相対主義的ニヒリズムだ。 高校2年生の物理で相対速度という概念を学んで以降の自分はこの考え方を積極的に取り入れてきた。 そして、さらに大人になるにつれて、そんなどっちつかずな考え方はうざすぎるし、積極的に唾棄すべきものだと感じるようになった。 ということで、結局どっちの考えにも転べない。 本当に人間は矛盾だらけだと思う。 でも、そういう矛盾に葛藤することこそ人間らしさだとも思ってるし、そういう矛盾を描いてる作品を自分が愛している理由だと思う。 もっと言えば、そんな矛盾の中でなんとか足を踏み出そうとする姿勢が好きだ。 だからこそ、高校3年生の英語で学んだ「Do what you think is right.(正しいと思うことをしろ)」という文章は私の心に深く根ざしている。
うだうだ色々書いてきたが、結局のところ
- ナラティブだってことは分かってる
- だけど、視点を捨てるな
- 矛盾しろ、その上で葛藤しろ
- Do what you think is right.
自分が物語に納得するためには、多分この辺が必要なんだと思う。 とはいいつつも、好きなものは多ければ多いほど得だとも思っているので、これらがない作品でもいいところを見つけて好きになっていけたら嬉しいな、と思う自分なのであった。